
伊藤 たてお さん
1945年 北海道室蘭市生まれ、札幌市在住
1950年 重症筋無力症を発病
1972年 全国筋無力症友の会(現 一般社団法人)北海道支部を設立
1973年 北海道難病団体連絡協議会(現 一般財団法人北海道難病連)を設立
北海道難病白書を刊行。地域難病連全国交流会を毎年開催し、患者運動の全国的な連携に尽力。
1983年 北海道難病センター開設(北海道庁の単独事業。運営費全額助成で受託)
1986年 日本患者・家族団体協議会(JPC)設立に参加
2005年 日本難病・疾病団体協議会(JPA)を結成。同協議会顧問。
2007年 難病支援ネット北海道設立(現 特定非営利活動法人難病支援ネット・ジャパン 代表)
2009年 「新たな難病対策・特定疾患対策を提案する」をJPA発表
2014年 「難病の患者に対する医療等関する法律」設立(施行2015年1月)
「声を上げなければ、何も変わらなかった」
日本の患者運動を切り拓いてきた伊藤たておさんの歩みと覚悟
難病とともに生きる当事者として、また長年にわたり患者会の立ち上げやネットワークづくり、制度改善に携わってきた伊藤さん。その存在は、日本における難病・疾病患者支援の歴史そのものと言っても過言ではありません。
医療や福祉の制度が十分に整っていなかった時代、「患者の声」は社会にほとんど届いていませんでした。そうした中で、なぜ伊藤さんは声を上げ続ける道を選んだのか。仲間とつながり、患者会を立ち上げ、行政や社会と向き合ってきた背景には、どのような思いと覚悟があったのか――。
今回のインタビューでは、伊藤さんご自身の病気体験を原点に、患者会設立に至るまでの葛藤や試行錯誤、制度づくりの現場で感じてきた壁や手応え、そして現在の社会に対して感じている課題や次世代へのメッセージまで、時間をかけてじっくりとお話を伺いました。
「声を上げること」の意味、そして今を生きる私たちに何ができるのか。患者支援に関わるすべての方に読んでいただきたい内容です。

伊藤さんが重症筋無力症を発症したのは1950年、わずか5歳のときでした。
戦後間もない日本では、医療体制も十分とは言えず、病気に関する情報も限られていました。とりわけ、原因が分からない病気や、患者数の少ない疾患については、社会的な理解もほとんどない時代でした。
「その頃は結核が流行っていて、最初は結核じゃないかと疑われたんです」
発熱や体のだるさ、力が入らないといった症状が続く中、病名が分からないまま入院生活が始まりました。治療というよりも、“とにかく様子を見る”しか選択肢がなかった当時の医療現場。その不安や戸惑いは、幼い伊藤さん本人だけでなく、家族にとっても計り知れないものだったはずです。
入院中、栄養をつけるために大量の栄養剤を摂取し、退院する頃には体重が増えすぎて着られる服がなかった――。
伊藤さんはそんなエピソードを淡々と語りますが、その言葉の裏には、「何が起きているのか分からないまま過ごす時間」と、「この先どうなるのか誰にも分からない」という、当時の医療の限界がありました。
転機となったのは、外国の医学文献に目を向ける医師との出会いでした。国内ではほとんど知られていなかった病気について調べ、比較的早い段階で「重症筋無力症」という診断が下されます。しかし、診断がついたからといって、すぐに有効な治療法が見つかるわけではありませんでした。
「歩けない、動けない、食べられない。
病院の中でも、“どうしようもない病気”という空気がありました」
病名が分かっても、治せる見通しが立たない――。それが当時の現実でした。「生きていくこと自体が、当たり前ではなかった」と伊藤さんが振り返る幼少期の体験は、その後、患者として、そして患者の声を社会に届ける立場として歩んでいく原点となっていきます。
伊藤さんの妹も、同じ重症筋無力症を患っていました。
しかし、その症状は伊藤さん以上に重く、日常生活を送ること自体が非常に困難な状態でした。
当時は、症状を根本的に治療する方法はなく、注射によって一時的に症状が和らぐことはあっても、その効果は長くは続きませんでした。回復の兆しが見えたかと思えば、再び症状が悪化する――そんな不安定な状態を繰り返す日々が続いていたといいます。
「食べ物も飲み物も飲み込めなくなってしまって……」

妹は次第に、食事や水分をとることさえ難しくなっていきました。体力は奪われ、できていたことが一つ、また一つとできなくなっていく。その様子を、幼い伊藤さんは間近で見続けるしかありませんでした。
病気について十分な説明を受けられる環境でもなく、「なぜ治らないのか」「どうすれば助かるのか」という問いに、誰も明確な答えを持っていなかった時代。家族は懸命に支えながらも、ただ時間が過ぎていくのを見守るしかなかったのが現実でした。
やがて妹は、病気によって命を落とします。
その出来事は、幼かった伊藤さんの心に深く刻まれました。同じ病気を抱えながら生きている自分と、命を落とした妹。その差がどこにあったのか、なぜ救えなかったのか――言葉にならない思いを抱えたまま、伊藤さんは成長していくことになります。
この経験は、単なる「家族を失った悲しみ」にとどまらず、病気と向き合う現実の厳しさ、そして「医療や社会の支えがなければ、命は簡単に失われてしまう」という事実を、幼いながらに突きつけるものでした。
後に伊藤さんが「患者の声」を社会に届けることに人生を捧げていく背景には、この妹との別れが、静かに、しかし確かに影響し続けていたのです。

病気の影響により、伊藤さんは学校に十分通うことができませんでした。体調が安定せず、外出そのものが難しい日も多く、毎日学校へ通うという「当たり前の生活」は、伊藤さんにとって遠い存在でした。
当時は、現在のように教育を受ける権利が強く意識されていた時代ではなく、「出席していなくても卒業できる」という制度がある一方で、学びの機会そのものが保障されているわけではありませんでした。学校に通えない子どもに対して、代わりとなる教育支援や配慮が用意されていることはほとんどなく、「行けないなら仕方がない」という空気が、社会全体にあったといいます。
「将来、何をしたいかとか、未来像なんて考えられなかったですね。
親も、祖父母も、誰もそんな話はしなかった」
病気とともに生きる子どもに対して、「将来の夢」や「進路」を語ること自体が、現実的ではないと受け止められていた時代。大人たちは口には出さなくても、「まずは生きていられるかどうか」という思いを抱えていたのかもしれません。
伊藤さんの日常は、家で寝たまま過ごす時間がほとんどでした。体を起こすこともつらく、外に出られない日が続く中、窓の外や家の外から聞こえてくる子どもたちの声だけが、時間の流れを知らせていました。
外で元気に遊ぶ同世代の子どもたち。学校へ通い、友だちと過ごし、未来に向かって進んでいく姿を、伊藤さんはただ遠くから眺めることしかできませんでした。そこには、羨ましさだけでなく、「自分はそこには行けない」という、静かな諦めのような感覚もあったといいます。
こうした経験は、伊藤さんに「選べる未来」が最初から用意されていなかったことを意味していました。夢を描く以前に、明日をどう迎えるかを考える日々。病気を抱える子どもが、将来について語ることすら難しかった時代の現実が、そこにはありました。
この「将来を描けなかった時間」は、後に伊藤さんが、病気を持つ子どもや患者にも“選択肢のある社会”をつくりたいと願うようになる、大きな原点となっていきます。
成長するにつれ、伊藤さんは札幌の大学病院に通うようになります。
そこでは、重症筋無力症についての研究が少しずつ進み、この病気が自己免疫の異常によって引き起こされているのではないか、という考え方が広まり始めていました。
当時としては最先端ともいえる知見であり、「原因が分からない病気」から、「仕組みを解明しようとする病気」へと、医療の向き合い方が変わり始めた時期でもありました。とはいえ、確立された治療法があるわけではなく、試行錯誤の中で治療が選択されていく状況でした。
免疫と関わりがあると考えられた胸腺に着目し、胸腺摘出手術や放射線治療が行われるようになります。
現在であれば慎重に検討される治療も、当時は「少しでも可能性があるなら試す」という判断がなされていました。

「今思えば、後の症状に影響している部分もあったと思います」
伊藤さんは、治療によって命をつなぐことができた一方で、その後の体調や生活に影響を残した側面もあったことを、静かに振り返ります。医療の進歩の途上にあった時代だからこそ、治療の効果と副作用、その先の人生まで見通すことは難しかったのです。
それでも当時の伊藤さんにとって、「治療の選択肢がある」こと自体が、何よりの希望でした。何もしなければ、どうなるか分からない。現状を受け入れるしかない状況の中で、「試せることがある」という事実は、生きる理由そのものでした。
「やらなければ、どうなるか分からない。生きるために、それを選ぶしかなかった」
その選択は、決して前向きな希望だけに満ちたものではなく、不安や恐れと隣り合わせの決断でした。それでも伊藤さんは、生きるために医療を信じ、提示された治療を受け入れます。こうした経験は、後に伊藤さんが「治療を選ぶ立場にある患者の不安」や、「情報が限られた中で決断を迫られる現実」を強く意識するようになる、大きな原体験となっていきました。

20代になっても、伊藤さんの体調は決して安定したものではありませんでした。日によって体の状態は大きく変わり、長時間の外出や重い作業は難しいまま。
周囲と同じように働いたり、学んだりすることは、現実的な選択肢とは言えませんでした。
それでも伊藤さんは、「絵を描くこと」「何かを表現すること」への思いを手放すことはありませんでした。幼い頃から心の中にあった表現への衝動は、病気によって消えることはなく、むしろ生きている実感を与えてくれる、大切なよりどころでもありました。
札幌で出会ったのは、芸術や演劇、音楽など、さまざまな表現に関わる人たちでした。彼らの中には、大学に進学していない人もいれば、既存の枠にとらわれず、自分なりの表現を模索している人もいました。肩書きや経歴ではなく、「何を感じ、どう表したいか」を大切にする人たちとの出会いは、伊藤さんにとって新鮮で、同時に救いでもありました。
学校に通えなかった過去や、病気による制約を引け目に感じる必要はない。そうした価値観に触れる中で、伊藤さんは少しずつ、「自分にも居場所がある」と感じられるようになっていきます。体の自由がきかなくても、言葉や絵、舞台や音楽を通してなら、社会とつながることができる。その実感は、これまで閉ざされていた世界を、静かに広げていきました。
「病気があっても、好きなことはやりたかった」
その言葉には、特別な決意や理想論ではなく、「人として当たり前の願い」が込められています。制限があるからこそ、何を大切にしたいのかが、よりはっきりと見えてくる。伊藤さんにとって表現することは、夢や趣味を超えて、「生き続けるための力」そのものでした。
この時期に出会った仲間や経験は、後に伊藤さんが社会と向き合い、言葉を紡ぎ、声を上げていく土台となっていきます。表現を通して培った感覚は、やがて「患者の声」を伝える活動へと、確かにつながっていくのです。
1960~70年代にかけて、薬害問題や難病をめぐる課題が、少しずつ社会の表舞台に現れ始めました。
新聞や雑誌で取り上げられる機会は増えましたが、現場で生きる患者一人ひとりの生活は、依然として厳しい状況に置かれていました。
治療法は限られ、安定した薬も手に入らない。働きたくても体がついていかず、仕事に就くことも難しい。公的な支援制度はほとんど整っておらず、患者と家族は、先の見えない日々を個別に抱え込んでいました。
「仕事もない。薬もない。家族は疲れ果てて、患者本人は追い詰められていく」

伊藤さんの周囲には、同じ病気や、似た境遇を抱えた人たちがいました。病気そのものだけでなく、孤立や経済的な不安、将来への絶望が、人を静かに追い詰めていく現実。中にはアルコール依存に陥る人、合併症や治療の影響で視力を失う人、そして自ら命を絶ってしまう人もいました。
そうした現実を、伊藤さんは決して「遠い話」として見ることができませんでした。自分もまた、同じ場所に立っている。状況が少し違えば、同じ結末を迎えていたかもしれない――その思いが、強い危機感となって胸に迫ります。
「これは、個人の問題じゃない」
病気を抱えていることそのものではなく、支え合う仕組みがないこと、声を届ける場がないことこそが、人を孤立させている。そう気づいたとき、伊藤さんの中で、「誰かが動かなければならない」という思いが、現実味を帯びていきました。
1972年、伊藤さんは全国筋無力症友の会北海道支部を設立します。
これは、同じ病気を持つ人たちが集い、情報を共有し、孤立を防ぐための最初の一歩でした。さらに翌年には、病気の種類を超えて連携する北海道難病団体連絡協議会を立ち上げ、難病全体の課題を社会に伝える取り組みへと踏み出します。
「最初から“運動をしよう”と思ったわけじゃない。
必要に迫られて、やるしかなかったんです」
伊藤さんにとって、患者会の設立は理想論や活動家としての選択ではありませんでした。目の前で苦しむ人がいて、このままでは同じ悲劇が繰り返される――その現実に背を向けることができなかった。ただそれだけだったのです。
この「やるしかなかった」という感覚こそが、後に全国規模の患者運動へと広がっていく原動力となっていきます。個人の声が、集まることで社会を動かす力になる。その始まりは、切実な現場の叫びでした。

全国から患者が集まる交流会は、決して恵まれた環境の中で行われていたわけではありませんでした。むしろ、「集まること自体」が、すでに大きなハードルだった時代です。
参加者の多くは、重い症状や慢性的な体調不良を抱えていました。それでも、地方から夜行列車に乗り、長時間かけて会場へ向かう人がいました。座席に座り続けることもつらく、横になれないまま一晩を過ごす移動は、体に大きな負担を強いるものでした。
ようやく駅に到着しても、待っているのは次の壁です。エレベーターのない駅では、長い階段を一段一段、休みながら上がらなければなりません。車いすや体力に不安のある人は、仲間に支えられながら、あるいは見知らぬ人に助けを求めながら、何とか移動していました。
会場にたどり着くまでだけで、すでに力を使い果たしてしまう――それが当たり前の状況でした。
そもそも、患者会が集まる「場所」を確保すること自体が、大きな困難でした。札幌市内の多くのビルでは、「万が一のことがあったら困る」「責任が取れない」といった理由で、会議室の利用を次々と断られます。患者が集まるというだけで、リスクと見なされてしまう現実がありました。
宿泊先を確保しようとしても、「保健所を通してください」と言われることもありました。病気を持つ人たちが集まることが、特別で、管理されるべきことのように扱われていた時代。その一つひとつが、患者たちに「歓迎されていない」という感覚を突きつけていました。
それでも、患者同士が実際に顔を合わせ、言葉を交わすことには、何にも代えがたい意味がありました。手紙や電話では伝えきれない思いや不安、体験を、同じ立場の人と共有できる。自分だけではなかったと知ることが、次に進む力になったのです。
「声を合わせなければ、行政にも医療にも届かなかった」
一人ひとりの声は小さくても、集まれば社会に届く。その実感を、伊藤さんたちは、体を張って学んでいきました。夜行列車と階段、断られ続けた会場探し――そのすべてを越えて集った「声」が、やがて制度や医療を動かす原動力となっていきます。
この時代の苦労は、単なる不便さの記録ではありません。「集まること」「語ること」自体が、すでに運動だった時代の、確かな足跡だったのです。
患者会の活動が広がるにつれ、少しずつ支援の輪も広がっていきました。専門医や医学部の学生が、患者会の活動に理解を示し、協力してくれるようになります。医療現場と患者が対話を重ねる中で、「患者の経験」そのものが、医療を前に進める大切な知見であるという認識も、徐々に芽生え始めていました。
しかし当時、日本では海外の医療や患者運動に関する情報はほとんど入ってきませんでした。治療薬の開発についても、現実は厳しいものでした。
「製薬メーカーは、難病の薬なんて売れないから作らない」
そう冷ややかに言われたことも、一度や二度ではありませんでした。患者数が少ないという理由だけで、治療の可能性が切り捨てられてしまう現実。それでも伊藤さんたちは、簡単に引き下がることはありませんでした。

「日本では患者数が少なくても、海外の患者を合わせればたくさんいる」
「治療や看護の技術は、必ず広がっていく」
目の前の数字だけではなく、世界全体を見渡せば可能性はある。
そう訴え続ける中で、伊藤さんたちは「まずは知ることが必要だ」と考え、海外の状況を自分たちの目で確かめに行く決断をします。
実際に海外を訪れてみると、患者会は日本だけの特別な存在ではありませんでした。
多くの国で、患者や家族が組織をつくり、情報を共有し、医療や社会に働きかけている現実がありました。
その姿は、「患者が声を上げることは、世界では当たり前なのだ」という確信を、伊藤さんたちに与えました。
そこで浮かび上がったのが、「拠点」の必要性でした。病気の種類を超えて人が集まり、情報を共有し、活動を続けられる場所がなければ、運動は続かない。
そうして生まれたのが、北海道難病センターです。
センターには、さまざまな病気を抱える人たちが集まりました。病名や症状は違っても、抱えている不安や困難には共通点が多くありました。
活動をともにする中で、患者会同士の間に少しずつ仲間意識が生まれ、「一緒に乗り越えてきた」という実感が積み重なっていきます。
時代の流れとともに、製薬メーカーの側にも変化が見え始めました。特定の病気に向けた薬であっても、きちんと開発すれば社会的にも経済的にも意義がある――そうした認識が広がり始めたのです。患者会の継続的な訴えが、少しずつ環境を変えていきました。
1986年、伊藤さんは日本患者・家族団体協議会(JPC)の設立に参加します。
これは、患者団体と家族会が全国規模で連携し、共通の課題を社会に訴えるための大きな一歩でした。
さらに2005年には、病気の枠を越えて難病・疾病団体を横断的につなぐ、日本難病・疾病団体協議会(JPA)の結成へとつながっていきます。
伊藤さんが一貫して意識してきたのは、「大きな組織が果たすべき役割」でした。
組織が成長すること自体が目的なのではなく、その力をどう使うかが問われる――そう考えてきたのです。
「大きくなったところは、小さい団体を支えなきゃダメなんです」
声を上げにくい小さな団体や、まだつながりを持てていない患者の存在を忘れないこと。
全国組織とは、声の大きさを競う場ではなく、声を拾い上げるための器である――伊藤さんのその姿勢は、今も多くの患者団体に受け継がれています。

難病対策は、長年の患者運動や関係者の尽力によって、制度としては少しずつ整えられてきました。
その象徴の一つが、全国各地に設置された「難病相談支援センター」です。患者や家族が相談できる窓口が公的に用意されたことは、大きな前進でした。
しかし、制度が整ったからといって、課題がすべて解決したわけではありません。
現場では今も、多くの問題が積み残されています。専門性を持つ人材の不足、相談員の経験や知識のばらつき、そして人材が定着しないことによる継続性の欠如。
さらに、地域による支援体制の差も、依然として大きな課題です。
「センターがあっても、相談できる人がいない。それでは意味がないんです」
名前だけの窓口では、患者の不安や困りごとに応えることはできません。
相談を受ける側に、病気への理解と、生活全体を見通す視点がなければ、かえって患者を孤立させてしまうこともあります。
特に地方や離島では、医療や支援にたどり着くまでの壁が、今もなお高く立ちはだかっています。
ある地域では、相談所が都市部ではなく、在来線やタクシーを乗り継がなければ到達できない場所に設置されているケースもあります。
その道のりを考えたとき、体調に不安を抱える人や、移動そのものが負担になる人が、果たして気軽に相談に行けるでしょうか。
制度として「ある」ことと、現実に「使える」ことの間には、依然として大きな隔たりがあります。
一方で、伊藤さんは「難病があっても、働ける人はたくさんいる」と指摘します。
重要なのは、本人の能力や意欲だけではなく、職場の理解です。在宅ワークを認める、通院のための時間調整を可能にする、
体調に応じた休憩を認める――そうした柔軟な対応があれば、仕事を続けられる人は少なくありません。
ただし、必要な配慮は人それぞれ異なります。ある人にとっては勤務時間の調整が必要で、別の人にとっては業務内容の変更が重要になる。画一的な対応ではなく、「その人に合った支え方」を考える姿勢が求められています。
また、障害者になるきっかけは、事故やけがだけではありません。実際には、難病を患うことで障害を持つようになる人のほうが多いという現実があります。
さらに、高齢になってから病気を発症する人も増えており、患者像はますます多様化しています。
その結果、同じ病気、同じ立場の人が大きくまとまることは、以前より難しくなってきました。
だからこそ、伊藤さんは「共感」の重要性を強調します。病名や年齢、立場が違っても、「困っている」「支えが必要だ」という思いに寄り添うことから、
支援は始まるのだと。
すべては共感から始まります。
制度を動かすのも、職場を変えるのも、社会を少しずつやわらかくしていくのも、誰かの状況に想像力を向ける、その一歩からなのです。
インタビューの終盤、伊藤さんは少し間を置きながら、静かにこう語りました。
そこには、長年第一線で活動してきた人特有の誇張や自負はなく、むしろ淡々とした実感がにじんでいました。
「何か特別なきっかけがあったわけじゃないんです。本当に、やらざるを得なかっただけです」
病気とともに生きる中で直面した理不尽さ。
制度がなく、相談先もなく、声を上げなければ何も変わらなかった時代。

伊藤さんの行動は、理想や理念から始まったものではなく、「生きるため」「仲間を守るため」の切実な選択の積み重ねでした。
しかし、その一つひとつの選択が、患者会を生み、地域をつなぎ、やがて全国組織へと広がり、制度や仕組みを動かす力になっていきました。
結果として、「やらざるを得なかった」行動は、日本の患者支援の確かな土台となり、今も多くの人の生活を支えています。
それでも伊藤さんは、過去を振り返って立ち止まることはありません。
「まだまだ、やることはありますよ」
その言葉には、諦めではなく、現実を見据えた冷静さと、次の世代への期待が込められているように感じられました。
社会は変わってきた一方で、課題は形を変えて残り続けています。だからこそ、すべてを一人で背負う時代ではなく、「引き継いでいく」ことが大切なのだと。
伊藤たておさんの歩みは、英雄的な物語ではありません。
けれど、声を上げ続けることの意味、仲間とつながることの力、そして「誰かがやらなければならない」場面で立ち止まらない勇気を、
私たちに静かに教えてくれます。
その言葉と背中は、これから患者支援に関わるすべての人に、
重く、そして確かな力として、今も響き続けています。