【第2回】IgA腎症患者 小野村さんインタビュー 第1部:告知から葛藤まで(一人の患者として)


【第2回】仕事と治療の狭間で。生活と迫りくる透析への思い

自分の腎臓がすでに深刻な状態(高リスク)にあると知ったのは、

入院治療が始まってからのことでした。


しかし、退院した小野村さんを待っていたのは、社会的な責任を伴う状態の仕事現場。

連載第2回では、闘病しながら激務に立ち向かった日々、

そして徐々に現実味を帯びていく「人工透析」という宣告に対する、当時のリアルな葛藤に迫ります。


インタビュー目次

〇退院の翌日から仕事と治療の狭間で

〇忙しさと食事療法の両立の難しさ

〇迫りくる「透析」へのカウントダウン🔒

〇「透析」への思い🔒

腎機能の低下が進む中で、お仕事では非常に重要な局面を迎えられていました。
体調に大きな変化がある中での仕事の両立は、相当な苦しさがあったのではないでしょうか。

一番きつかったのは、入院治療を終えて退院してからも、
腎臓の炎症を抑えるための強いお薬を飲み続けなければならなかった時期です。

薬の影響で、食欲が異常に増して体が変化していくのと同時に、
神経が昂って「目が完全に冴えてしまう」んです。

夜中、一睡も眠れない。
そうなると、当然日中は強烈な眠気に襲われます。

「管理職として、今ここでボーッとしてる場合じゃないんだ!」と自分を奮い立たせるのですが、薬の影響には抗えなくて、負けてしまいそうになる自分が本当につらかったです。

お昼休みもまともに取れないほど激務だったので、せめてお昼の10分間だけは絶対に目を瞑って脳を休める、といった防衛策を必死に取っていました。


周囲の働くメンバーとの関係や、職場の環境はいかがでしたか?

職場のみんなは、私が入院したことも腎臓が悪いことも知ってくれていましたが、
当時は組織全体が非常に多忙で、まさに誰もが必死な状態でした。

私の部署でも、体調を崩して休む人間が相次ぐような過酷な状況だったんです。
誰かが空けた穴をみんなで必死に埋め、他部署からも応援を呼んで……という状態でした。

そのため、私も3週間の入院を経て退院し、少し自宅療養の期間をもらいましたが、
どうしても外せない重要な打ち合わせが入ってしまい、お休みを変更して仕事に出ていきました。

そして、正式に出勤を再開した初日から、いきなり夜遅くまで働く生活に逆戻りです。


退院直後からそれだけハードに働かれるなんて、周囲も驚いたのではないですか?

職場のメンバーからは「えっ! 本当にこの前まで入院してたんですか!?」と驚かれました。

「あ、元気そうで良かった」なんて言われて(笑)。

でも、本当に自分が休んだら現場が回らない逼迫した状況でしたし、
自分自身も「私が頑張らなきゃいけないんだ」と、気力だけで動いていたんだと思います。

その土日も関係ないような過酷な働き方が、丸1年近く変わらずに続きました。


腎臓に病気を抱えながらそれだけ過酷に働くとなると、食事療法のコントロールも難しかったのでは?

全くできませんでしたね。毎日、職場を出て家に帰るのが夜の10時や11時です。

夕飯をその時間に手作りすることなんて到底無理。

本当は夜の早い時間にヘルシーなものを食べるべきなのに、

仕事帰りに買ってきたお惣菜や外食で済ませるしかありませんでした。

しかし、市販のお弁当や外食って、どうしても塩分がものすごく高いんですよね。野菜も圧倒的に足りない。

そんな生活の中で、夜中にお腹が空くからとお菓子をちょっとつまんで誤魔化して、

深夜の11時や12時に塩分の高い晩ご飯を食べる。薬の影響でただでさえ太りやすいのに、
そんな生活をしていたら一気に体重も増えてしまいます。夜は眠れないし、食事は荒れるしで、
腎臓にとっては本当に良くない環境を自ら作ってしまっていたと思います。

でも、そんな風に私が日中ボロボロになりながら席に座っていても、職場の仲間たちは何も言わずに温かく見守ってくれていました。
今振り返っても、周囲の優しさには本当に感謝しかありません。



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──次回の予告

「延命治療としての透析はしない」と心に誓っていた小野村さん。

しかし、ある時その頑なな心を溶かす、大切な家族からの言葉がありました。

第一部最終回、【第3回:生きるための選択、そして運命を変えたセカンドオピニオン】へ続きます。


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