中島 一郎 先生インタビュー|前編

●「わかっていないことを見つけるのが面白い」研究への思い 

山野先生インタビュー

中島先生が医師を目指すようになった背景には、研究者だったお父様の存在がありました。 

お父様は基礎研究に携わっており、子どものころから中島先生に「世の中の役に立て」と伝えていたそうです。人の役に立つためには、研究に関わる道もあるのではないか。そうした考えが、自然と進路に影響していったといいます。 

また、中学・高校時代には医学部を目指す同級生が多く、周囲とともに勉強する環境があったことも、医師という道に進むきっかけの一つになりました。 

一方で、中島先生は宇宙工学などにも興味があったそうです。それでも最終的には、「人の役に立つ」という思いに近い道として、医師を選ばれました。 


●神経免疫疾患を専門にした理由とは

中島先生が神経免疫疾患を専門にした背景には、研究を始めた当時の指導環境と、研修医時代に出会った患者さんの存在がありました。 

学生時代について、中島先生は「あまり真面目な学生じゃなかったので」と、飾らない言葉で振り返ります。野球部での活動に力を注ぐ一方で、興味を持った講義には積極的に足を運んでいたそうです。 

「面白いと思った講義は受けていましたが、野球部に入っていたため、基本的には野球の練習に明け暮れていました。」

なかでも、中島先生が強い関心を持っていたのが、神経活動や脳の働きでした。寝ている間、脳はどのように働いているのか。自分の意識はなぜ生まれたのか。そうした「まだわかっていない世界」への興味が、神経の研究へ向かうきっかけになったといいます。 

「古いことを学ぶよりも、わかっていないことを見つけた方が面白いかなと。」 

この言葉からも、中島先生が未知の領域に向き合い、まだ答えのない問いを探究することに魅力を感じていたことが伝わってきます。 

研修医になると同時に大学院に入って研究を始めたとき、指導を受けた教授が、多発性硬化症の第一人者だったことが神経免疫疾患を専門とした大きな理由でした。 

そしてもう一つ、研修医時代に出会った患者さんの存在がありました。 

「研修医時代に、神経免疫疾患の患者さんを診る機会が多くありました。当時は、ほとんど治療法がなくて、40代の女性の患者さんを亡くしたことがあります。やっぱり救えなかった。その患者さんを救えなかったことが、とても心に残っていて。こういう人を救いたいなと思って、研究を始めました。」 

治療法が限られていた時代に、目の前の患者さんを救えなかった経験。その悔しさと記憶が、中島先生を神経免疫疾患の研究へ向かわせた大きな原点の一つになっています。

●視神経脊髄炎と多発性硬化症の研究へ

中島先生は、視神経脊髄炎と多発性硬化症の診療・研究に深く携わっています。 

日本人の患者さんにもこの抗体が存在することの確認に関わったと話します。現在でいう視神経脊髄炎は、多発性硬化症の一つの型と考えられていた時代がありました。しかし、診療や研究を重ねる中で、中島先生は「多発性硬化症の中に、別の病気が紛れている」と感じたといいます。 

その違いを明らかにする大きな手がかりとなったのが、アクアポリン4抗体(AQP4抗体)です。アクアポリン4抗体は、自分の体の成分に反応してしまう「自己抗体」の一つで、視神経脊髄炎の診断や病気の理解において重要な役割を持つことが分かってきました。 

中島先生は、アクアポリン4抗体について、日本人の患者さんにもこの抗体が見られることを確認する研究に関わったと話します。

「アクアポリン4抗体というのを見つけたのは、米国メイヨー・クリニックのVanda A. Lennon(ヴァンダ・A・レノン)先生です。2004年にランセットに報告して、その時に協力した関係で僕も著者の中に入っています。実際にはヴァンダ・A・レノン先生が見つけたものですが、それの検証というか、日本人においても、その抗体が存在しているというところに協力したのです。」 

中島先生は、抗体を測定する技術を磨きながら、アクアポリン4抗体が陽性の患者さんにはどのような特徴があるのかを調べ、視神経脊髄炎が多発性硬化症とは異なる疾患であることを検証していきました。 

「アクアポリン4抗体が陽性の患者さんだったら、どういう特徴があるのか。私たちは、アクアポリン4抗体という抗体を測定する技術を磨き、やっぱり多発性硬化症とは違うということを検証していきました。」 

こうした研究の積み重ねによって、視神経脊髄炎は多発性硬化症とは異なる疾患として理解されるようになっていきました。

●患者さんとの向き合い方で心に残っていること

長年、患者さんと向き合う中で印象に残っている出来事について伺うと、中島先生は、ある多発性硬化症の患者さんから「冷たい」と言われた経験を話してくださいました。 

当時の中島先生は、医師になりたての20代半ば。ご自身としては寄り添っているつもりだったものの、診断はできても治療法がほとんどない時代でした。 中島先生は、当時の患者さんの気持ちをこう振り返ります。 

「患者さんにしてみれば、治らない病気って言われるだけでも、それだけ絶望を感じると思うのです。」 

その不安やつらさに対して、当時の自分はうまく共感できていなかったのかもしれない、配慮が足りなかったのかもしれない。中島先生は、その経験をそう振り返ります。 

「コミュニケーションがうまく取れていなかったのでしょうね。」 

その出来事をきっかけに、中島先生は患者さんの気持ちをできるだけ理解することを、より意識するようになったといいます。 

「できるだけ気持ちを理解するように、生活の中でも気をつけるようにしました。」 

病気の説明をするだけではなく、その言葉を受け取る患者さんが、どのような不安や絶望を抱えているのか。中島先生のお話からは、病気だけでなく、医療者として患者さんの気持ちに向き合い続けてきた姿勢が伝わってきます。


(無料)会員登録する
既に会員登録のお済みの方は下記からログイン
ログインする