
SMA当事者が語る半世紀の歩み
―知られざる時代を生き抜いてきた経験と、今につながる制度の課題―
今回、50代後半のSMA当事者であり、SMA家族の会に所属されている方に、幼少期から現在に至るまでの歩みを伺いました。
SMAという病名がほとんど知られていなかった時代を生き抜き、制度や支援が整っていく過程を見つめ続けてこられた、その半世紀にわたる貴重なお話です。
〇まだ「SMA」という言葉がなかった時代に
〇通学をめぐる母の奮闘と、支援級のような学びの場
〇「仲間がいる場所」筋ジストロフィー病棟併設校との出会い 🔒
〇患者会との出会い ― 情報が命綱だった 🔒
〇治療がなかった時代と、リハビリだけの毎日 🔒
〇支援制度の矛盾 ― 「働く」と「介助」が両立しない壁 🔒
〇大学通学の「介助禁止」問題と、制度の遅れ 🔒
〇制度の地域差と、当事者が直面する困難 🔒
〇当事者の言葉が未来の支援をつくる 🔒
お話は、昭和40年代前半。生まれてすぐ、父親の転勤で広島に住まれたそうです。
当時はSMAという病気はまったく知られていない時代でした。
1歳半頃、歩き方に違和感を覚えた母親が近所の整形外科を受診すると、足首の変形を疑われ、装具による矯正を開始。しかし、足→膝→腕と動かしにくさがあっという間に広がり、「手足の問題ではない」と気づき始めたといいます。
広島大学病院、大阪大学病院と受診を重ねても病名は分からず、筋ジストロフィーとも診断されませんでした。5歳頃、就学に備え障害者手帳を申請するために作成された診断書に記された「脊髄性進行性筋萎縮症」が、親が知らされた病名でした。
「6歳まで生きられれば良いと言われていた」
「肺炎を何度も繰り返し、本当に危ない時期があった」
頑張ってリハビリしていればいずれは動けるようになる、という考えが正しいとされた時代。
お母様は後に「重い装具をつけて無理して歩行訓練したことは、今思えばよくなかった」と言われたそうです。
転勤で大阪に移ってから就学を迎えます。大阪は当時でも進んでいて、家の近くの小学校への入学を薦められましたが、「まったく動けない子が走り回る子どもの中に入って大丈夫か?」と心配した母は、家から離れた特殊学級(現在の支援学級)のある小学校を選び、通学のために車の免許も取りにいきました。
しかし、入学後すぐ、特殊学級の学習内容と私の学習レベルが合わないと感じた担任が、校長や他の1年生担当の教諭と先生が掛け合い、「授業は普通級、給食や一部活動は特殊学級」という柔軟な体制を整えてくれました。当時は座位も保てており、手も動いていたため可能だった学びの形です。
次の転勤で京都へ移ると、最初に訪れた養護学校(現・特別支援学校)には「他の子と状態が違いすぎる」と受け入れを断られました。そこで大阪の先生が教育委員会に掛け合い、一般校の普通学級に通学できることになりました。
新しい校長先生は理解のある方で、クラス替えのタイミングでも配慮が行われ、学びの環境が整えられていきました。......
☆本記事は、一般社団法人SMA家族の会のご紹介・ご協力のもとに作成しました。
※脊髄性筋萎縮症についての情報がご覧いただけます。
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