
「諦めないでほしい。支えてくれる人は必ずいる」
脊髄性筋萎縮症とともに歩む15年
脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断されてから15年。
岡本さんは、かつて歯科衛生士として働きながら、子育てや地域活動に積極的に取り組み、
ご家族や友人に囲まれた充実した毎日を送っていました。
しかし、ある日を境に少しずつ身体に異変が現れ始めます。
原因がわからないまま複数の医療機関を受診し、不安な日々を過ごした末にたどり着いたのが、
脊髄性筋萎縮症という診断でした。
今回のインタビューでは、発症当時のこと、診断に至るまでの道のり、病気と向き合う中で感じた葛藤、
家族との絆、そして今だから伝えたい思いについて、じっくりとお話しいただきました。
「諦めないでほしい。支えてくれる人は必ずいる。」
その言葉には、15年という長い年月を病気とともに歩みながら、
多くの困難を乗り越えてきた岡本さんだからこその重みがあります。
病気とともに生きることは決して簡単なことではありません。
しかし、人とのつながりや支えによって、新たな可能性や希望を見つけることができる。
岡本さんの歩みは、同じ病気と向き合う方やご家族だけでなく、
誰にとっても「自分らしく生きること」の大切さを教えてくれるものでした。
今回はそんな岡本和子さんの15年間の軌跡と、今を前向きに生きる思いをお届けします。
〇「もしかしたら…」から始まった発症
〇大好きだった仕事と運転を手放した日
〇「大丈夫、支えていくから」
〇「施設に入るしかない」と思った時に出会った支援

岡本さんが身体の異変を感じ始めたのは、今から15年前のことでした。
当時は歯科衛生士として仕事を続けながら、子育てにも忙しい毎日を送っていました。
休日には家族で出かけたり、息子さんのサッカーの試合を応援したりと、ごく普通の日常を過ごしていたといいます。
そんなある日、歩いている最中に突然膝の力が抜けるような感覚に襲われました。
「歩いていると急にガクッと膝が落ちるんです。
最初は膝に水がたまったのかなとか、関節の問題かなと思っていました」
違和感はあったものの、その時は深刻な病気だとは考えていませんでした。
しかし、その症状は少しずつ頻度を増していきます。
不安になった岡本さんは整形外科を受診しました。
しかしレントゲンなどの検査を受けても、「骨には異常がありません」「筋肉痛かもしれませんね」と言われるばかりで、原因はわかりませんでした。
「何軒か病院を回ったんですけど、どこに行ってもはっきりしたことは言われませんでした。自分でも何が起きているのかわからなくて、不安でしたね」
そんな中、転機となったのは最後に受診した整形外科での出来事でした。
診察した医師は、岡本さんに「ちょっと蹴ってみてください」「パンチしてみてください」と声をかけ、筋力の状態を確認しました。
その結果、年齢の割に明らかに筋力が低下していることに気づいた医師は、
「一度神経内科で詳しく調べてもらった方がいい」と大きな病院への紹介状を書いてくれたのです。
「今思うと、あの先生が気づいてくださらなかったら、もっと診断が遅れていたかもしれません」
紹介先の総合病院では、MRI検査やさまざまな検査が行われました。
しかし、MRIでは明確な異常は見つかりませんでした。
ところが、筋電図検査を受けた際、筋肉に異常が起きていることが判明します。
さらに詳しい検査を進める中で、医師から筋肉や神経に関わる病気の可能性があることを告げられました。
それでも岡本さんは、「本当にそうなのだろうか」という思いを拭いきれませんでした。
実は岡本さんのお父様とお兄様も、同じ脊髄性筋萎縮症を患っていたのです。
お父様は60歳で、お兄様は55歳で亡くなられています。
家族の病歴があったからこそ、「もしかしたら」という思いは常に心のどこかにありました。
しかしその一方で、「自分だけは違う」「そうであってほしくない」という気持ちも強くあったといいます。
「父も兄も同じ病気でした。だから頭の片隅にはずっとありました。
でも、自分は違うと思いたかったんです。そうじゃないと信じたかったんですよね」
より専門的な意見を求め、岡本さんは自ら札幌の専門医療機関を受診しました。
そこで難病診療に携わる医師たちから、「脊髄性筋萎縮症の可能性が高い」と伝えられます
ただし、はっきりと断定されたわけではなく、「可能性が高い」という説明でした。
現在でも、検査結果などから100%確定とは言い切れない部分があるそうですが、
これまでの症状の経過や身体の変化から、脊髄性筋萎縮症として診療を受けています。
診断を受けた時の衝撃は大きなものでした。
けれども、それ以上につらかったのは、その思いを誰にも打ち明けられなかったことでした。

ご主人にも、お子さんたちにも、自分の母親にも話せなかったといいます。
「誰にも言えませんでした。主人にも、母にも、子どもたちにもです。
言葉にしてしまったら、本当に病気だと認めることになる気がして……」
当時は仕事をしていたため、忙しさの中で病気のことを忘れられる時間もありました。
しかし、家に帰ると現実が押し寄せてきます。
これから自分の身体はどうなってしまうのだろう。
歩けなくなるのだろうか。
仕事は続けられるのだろうか。
子どもたちの成長を見届けられるのだろうか。
そんな不安が次々と頭をよぎり、一人で涙を流す日々が続きました。
「家に帰ると泣いていました。でも家族が帰ってくる前には化粧を直して、何事もなかったように笑顔で迎えていたんです」
誰にも弱音を吐けないまま過ごした時間。
それは病気そのものとの闘いだけでなく、自分自身の心との闘いでもありました。
「病気になった人にしか分からない葛藤だったと思います。
将来への不安もありましたし、受け入れたくない気持ちもありました。毎日、自分自身と戦っていました」
やがて病気は少しずつ進行し、階段を上ることが難しくなり、走ることができなくなっていきます。
そして、その変化を家族も気づくようになりました。
岡本さんが長い間一人で抱えてきた思いを打ち明ける時が、少しずつ近づいていたのです。
診断を受けた当初、岡本さんの症状は急激に進行したわけではありませんでした。
日常生活を送ることはできていましたし、歯科衛生士としての仕事も続けていました。
しかし、身体の変化は少しずつ、確実に進んでいきました。
最初は階段を上る時に足が重く感じる程度だったものが、次第に走ることができなくなり、長い距離を歩くことも難しくなっていきます。

それでも当時の岡本さんは、「まだ大丈夫」と自分に言い聞かせながら、これまでと変わらない生活を続けようとしていました。
「進行がすごくゆっくりだったんです。だから、自分でもどこかで『まだできる』『まだ大丈夫』って思っていたんですよね」
歯科衛生士として働いていた頃の岡本さんは、職場でも頼りにされる存在でした。
患者さんと接することが好きで、仕事にやりがいを感じていました。
子育てとの両立で忙しい毎日でしたが、充実した日々だったと振り返ります。

一方で、プライベートでは大好きなものがありました。
それが「車の運転」です。
「本当に運転が好きだったんです」
そう語る岡本さんの表情は、今でも当時を懐かしむような優しい笑顔でした。
息子さんはサッカーのクラブチームに所属しており、全道各地で大会が開催されていました。
遠征があるたびに車を走らせ、チームメイトの子どもたちを乗せて会場へ向かうことも珍しくなかったそうです。
「息子のサッカーの遠征で北海道中を走っていました。大会があると他のお子さんたちも乗せて行ったりしていましたし、本当に運転が好きでしたね」
家族との旅行も、友人とのお出かけも、岡本さんにとって運転は生活の一部でした。
ハンドルを握ればどこへでも行ける。
そんな自由さが好きだったといいます。
しかし病気の進行とともに、その大切な時間にも少しずつ影響が現れ始めました。
歩行時に膝が抜けるような感覚。
足に力が入りづらくなる感覚。
思うように身体が動かなくなる不安。
それらは車を運転する上でも無視できない問題になっていきました。
「もし運転中に足が動かなくなったらどうしようって考えるようになったんです」
そしてある時、岡本さんは大きな決断を下します。
「事故を起こしてからでは遅いと思ったんです」
誰かを傷つけてしまってからでは取り返しがつかない。
だからこそ、自分の意思で運転をやめることを選びました。
大好きだった運転。
自由を感じられる時間。
家族との思い出が詰まった車。
それらを手放す決断は簡単なものではありませんでした。
「本当はやめたくなかったです。でも、自分で決めなきゃいけないと思いました」
それは、病気によって初めて失った大きなものの一つだったかもしれません。
そして同じ頃、仕事にも影響が出始めます。
立ち仕事が続く歯科衛生士という職業は、身体への負担が少なくありません。
杖を使うようになり、長時間立ち続けることが難しくなっていきました。
患者さんの安全を考えれば、無理を続けることはできません。
仕事が好きだったからこそ、思うように働けなくなっていく現実は苦しいものでした。
「仕事も本当に好きでした。でも身体がついていかなくなってしまったんです」
病気の進行によって、これまで当たり前だったことが少しずつできなくなっていく。
それは想像以上につらい経験でした。
杖を使う生活になり、やがて歩行器を利用するようになります。
それでも岡本さんはできる限り自分の力で生活を続けようとしていました。
歩行器を使いながらキッチンに立ち、料理を作る日々。
自宅のお風呂も工夫しながら一人で入っていました。

しかし転倒の回数は次第に増えていきます。
歩行器ごと後ろに倒れ、後頭部を強く打つこともありました。
「転ぶたびに『もう危ないな』と思うようになりました」
そして4年前、ついに車椅子での生活を選択することになります。
最初は戸惑いもありました。まだ歩けるのに。まだ自分でできるのに。
そんな思いもあったといいます。
しかし、ご主人は違う考えでした。
「転ぶより車椅子に乗ってくれた方が安心だ」そう言って背中を押してくれました。
当初は受け入れることが難しかった車椅子生活も、今では岡本さんの大切な相棒になっています。
身体の状態に合わせてオーダーメイドで作られた車椅子は、長時間座っていても負担が少なく、
外出の幅も広げてくれました。
病気によって失ったものは決して少なくありません。
大好きだった仕事。
自由に運転できる時間。
自分の足で好きな場所へ行けること。
けれど岡本さんは、そのたびに立ち止まるのではなく、新しい方法を探しながら前へ進んできました。
「できなくなったことはたくさんあります。でも、その時その時で今の自分にできることを考えてきました」
病気によって人生が変わったことは事実です。
それでも岡本さんは、自分らしさを失わずに歩み続けています。
失ったものを嘆くだけではなく、今ある力で何ができるかを考える。
その積み重ねが、15年という長い年月を乗り越えてきた岡本さんの強さなのかもしれません。

病気は少しずつ進行していきました。
階段を上るのが難しくなる。
歩く速度が遅くなる。
何もないところでつまずく。
そうした変化を毎日一緒に暮らす家族が気づかないはずはありませんでした。
ある日、ご主人やお子さんたちから
「最近、足の様子がおかしいよね」「何かあるの?」
と声をかけられたそうです。
もう隠し続けることはできない。
そう感じた岡本さんは、意を決して病気のことを家族に伝えました。
「実は脊髄性筋萎縮症と診断されている」
その言葉を口にするまでには、大きな勇気が必要でした。
家族はどんな反応をするだろう。
ショックを受けるのではないか。
迷惑をかけてしまうのではないか。
さまざまな不安が頭をよぎったといいます。
しかし、返ってきたのは岡本さんが想像していたものとは違う言葉でした。
「大丈夫だよ」
「みんなで支えていくから」
家族は病気を受け止め、岡本さんと一緒に歩んでいく決意を示してくれたのです。
「本当に救われました。あの時、一人で抱え込まなくてよかったんだって思いました」
中でも大きな支えとなったのが、ご主人の存在でした。
まさか結婚した相手が難病を発症するとは想像もしていなかったはずです。
ご主人自身も戸惑いや葛藤、不安を抱えていたことでしょう。
それでも、岡本さんの前では常に支える側でいてくれました。
病気が進行するにつれて、岡本さんは少しずつできないことが増えていきました。
以前は一人で入ることができていたお風呂も、3年ほど前から介助が必要になりました。
それまではリフト付きのお風呂を活用しながら、自分で身体を洗い、自分で入浴することができていたそうです。
しかし徐々に腕の力が弱くなり、シャワーを持ち上げることや身体を洗うことが難しくなっていきました。
その頃から、ご主人が毎日お風呂介助を行うようになりました。
仕事で疲れて帰宅した日も。帰りが遅くなった日も。それは変わりません。
「主人はどんなに仕事で遅くなっても、お風呂に入れてくれるんです」
その言葉には、長年連れ添った夫婦だからこその信頼と感謝がにじんでいました。
もちろん、いつも優しい言葉ばかりではないそうです。
時には冗談を言い合ったり、文句を言われたりすることもあると笑います。
それでも、毎日欠かさず支えてくれる姿を見るたびに、その優しさを感じるといいます。
「口ではいろいろ言うんですよ。でも、なんだかんだ全部やってくれるんです」
そう話す岡本さんの表情は、とても穏やかでした。
ご主人は岡本さんが病気だからといって、家の中に閉じこもる生活を望んではいません。
むしろ、これまでと同じように人生を楽しんでほしいと考えています。
「どこか行きたいところはないの?」
「我慢しなくていいよ」
そんな言葉をかけながら、旅行にも連れて行ってくれるそうです。

車椅子での移動やバリアフリーの宿探しなど、以前より準備に時間はかかります。
それでも、ご主人は「行きたいなら行こう」と背中を押してくれます。
最近では、結婚した娘さんが暮らす場所まで車で約6時間かけて会いに行く計画も立てているそうです。
長距離移動は体力的な負担も大きく、岡本さん自身は「私には無理かもしれない」と考えていました。
しかし、ご主人は違いました。
長時間の移動でも身体が楽になるようにクッションを用意し、休憩場所を調べ、バリアフリー対応のホテルまで予約してくれたのです。
「主人は『行けるから大丈夫』って言うんです」
病気になったからこそ改めて気づけたものもありました。
それは家族の存在です。
当たり前だと思っていた日常。
当たり前だと思っていた支え。
その一つひとつが決して当たり前ではなかったことに気づいたといいます。
「病気にならなかったら、ここまで主人に感謝することもなかったかもしれません」
結婚して31年。
長い年月の中には楽しいことも、大変なこともあったはずです。
そして病気という大きな試練もありました。
それでも今、岡本さんは迷うことなくこう言います。
「感謝しかないですね
その一言には、15年間病気と向き合いながらも、一番近くで支え続けてくれたご主人への深い思いが込められていました。

病気の進行はゆっくりではありましたが、確実に岡本さんの日常を変えていきました。
杖を使うようになり、歩行器を使うようになり、それでもなんとか自分の力で生活を続けてきました。
料理を作ることも好きでした。
歩行器を使いながらキッチンに立ち、家族のために食事を作っていました。
掃除や洗濯も、時間はかかるものの自分で行っていました。
「できることは自分でやりたい」
そんな思いが強かったといいます。
長年、家族を支えてきた立場だったからこそ、人に頼ることには少なからず抵抗がありました。
しかし、身体の状態は少しずつ変化していきます。
硬い食材を切ることが難しくなる。
立ち上がる際に力が入らなくなる。
トイレの移動に時間がかかるようになる。
そして何より怖かったのが転倒でした。
「転ぶ回数がどんどん増えていったんです」
最初はなんとか自分で立ち上がることができていました。
けれど次第に、それも難しくなっていきました。
歩行器を使っていてもバランスを崩してしまう。
後ろ向きに倒れて後頭部を強く打つこともありました。
一歩間違えれば大きなけがにつながるような転倒も増えていったといいます。
そんな中、まず利用を始めたのが短時間のヘルパーサービスでした。
必要な時だけ来てもらう支援です。
料理中に硬い食材を切ることができない時。
トイレで立ち上がれなくなった時。
困った時に電話をすると駆けつけてくれる存在でした。
「最初は本当に少しだけだったんです。30分とか1時間とか、そのくらいの利用でした」

しかし病気の進行とともに、「困った時だけ」では対応できない場面が増えていきました。
朝起きてから夜眠るまでのあらゆる動作に支援が必要になり始めたのです。
体が思うように動かなくなる一方で、「周りに迷惑をかけているのではないか」という気持ちも強くなっていきました。
そしてある時、岡本さんはケアマネジャーにこう相談したそうです。
「もう施設に入った方がいいのでしょうか」
自宅での生活には限界があるのではないか。
家族にも負担をかけているのではないか
これ以上周囲に迷惑をかけるくらいなら、施設で生活した方がいいのではないか。
そんな思いが頭をよぎったのです。
しかし、その言葉に対してケアマネジャーはきっぱりと答えました。
「そんなこと考えないでください」
「岡本さんは家にいたいでしょう?」
その言葉に、岡本さんは驚いたといいます。
施設に入ることしか選択肢がないと思い込んでいたからです。
さらにケアマネジャーは続けました。
「今まで通りお友達と会いたいでしょう?」
「ランチにも行きたいでしょう?」
「家で暮らし続けられる方法を考えましょう」
そして紹介されたのが、現在利用している重度訪問介護でした。
当時の岡本さんにとって、「介護サービス」というと最低限の身の回りの世話をしてもらうものというイメージがあったそうです。
ところが実際に話を聞いてみると、その内容は想像以上に幅広いものでした。
家事のサポートだけではありません。
外出の付き添い。
買い物のサポート。
病院受診の同行。
友人との食事への付き添い。
そして日常生活全般の支援。
「一人で頑張らなくてもいいんだよ」
そう言われた時のことを、岡本さんは今でもよく覚えています。
長い間、「自分でやらなければいけない」と思い続けてきたからです。
人に頼ることは甘えではない。
助けてもらうことも大切な選択肢。
そう考えられるようになった瞬間だったのかもしれません。
現在は6名の介護スタッフがシフト制で支援に入っています。
平日は朝8時半頃から夕方6時頃までスタッフが常駐し、生活全般をサポートしてくれています。
掃除や洗濯、調理などの家事はもちろん、トイレ介助や移動のサポートなども行っています。
ご主人が仕事の日や外出している日も、安心して自宅で過ごせるようになりました。
さらに大きかったのは、「外に出る機会」が増えたことでした。
岡本さんはもともと食べ歩きやカフェ巡りが大好きです。
友人とランチを楽しむ時間も大切にしてきました。
しかし身体の状態が悪化するにつれて、「迷惑をかけるから」「無理だろうから」と
諦めることが増えていたそうです。
ところが介護スタッフは違いました。
「行きましょう」
「大丈夫ですよ」
そう言って背中を押してくれたのです。

段差があるお店でも、簡易スロープを持参して対応してくれる。
車椅子で入れるようにお店と相談してくれる。
友人との約束にも同行してくれる。
以前なら諦めていた場所にも行けるようになりました。
「私は無理だと思っていたんです。
でもスタッフさんたちは『大丈夫です』って言って連れて行ってくれるんですよね」
その言葉には、支援を受けながらも自分らしい生活を続けられている喜びがにじんでいました。
介護サービスを利用する前は、「できなくなること」ばかりに目が向いていたといいます。
しかし支援を受けるようになってからは、「どうしたらできるか」を考えられるようになりました。
できないから諦めるのではなく、方法を変えて続ける。
誰かの力を借りながら実現する。
その考え方の変化は、岡本さんの暮らしを大きく変えました。
「もしあの時、重度訪問介護と出会っていなかったら、今の生活はなかったと思います」
施設に入るしかないと思い詰めていた頃には想像もできなかった現在の暮らし。
自宅で過ごしながら、友人と会い、好きな場所へ出かけ、地域とのつながりを持ち続ける日々。
そして今、その経験を振り返りながら岡本さんはこう話します。
「助けてもらうことは悪いことじゃないんです。もっと早く頼ってもよかったのかもしれませんね」
その穏やかな笑顔からは、多くの支えに出会いながら歩んできた15年間の重みと、人とのつながりへの深い感謝が伝わってきました。
〈後編へ続きます〉
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