「死ぬかもしれない」と思ったあの日から 重症筋無力症が変えた、私の人生の始まり
「何もできなくなってしまった。」
23歳でイギリスに留学していた大島なつめさんは、突然、まぶたが下がり、水や食べ物を飲み込めなくなりました。
帰国後、「重症筋無力症」と診断され、『家庭の医学』に書かれていた「死ぬ場合もある」という内容を読んで、泣いたといいます。
しかし、その経験は、大島さんの人生を終わらせるものではありませんでした。
大島さんは、治療を続けながら将来の進路を考え、大学院で心理学を学ぶ道へ進みました。
現在は公認心理師・精神保健福祉士として、多くの人の心に寄り添いながら、一般社団法人 日本難病・疾病団体協議会(JPA)の理事、そして一般社団法人全国筋無力症友の会の副代表としても活動されています。
今回は、大島さんが重症筋無力症を発症し、治療を受けながら大学院へ進み、心理職として働き始めるまでのお話を伺いました。
大島なつめさんの素敵なお話を前後編に分けて、お届けします。
【目次】
3.🔏「死ぬかもしれない」──突然告げられた重症筋無力症
4.🔏本も読めず、寝ているしかなかった入院生活
5.🔏医学部への編入から、大学院へ
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現在、大島なつめさんは、公認心理師・精神保健福祉士としてクリニックや行政機関で相談業務に携わる一方、一般社団法人全国筋無力症友の会の副代表と首都圏支部の支部長の活動にも取り組んでいます。
23歳で重症筋無力症を発症し、現在も体調に合わせながら働き続けています。
しかし、学生時代に目指していた道は、今とは全く異なるものでした。
大島さんは高校3年生の夏、父親の都合でイギリスへ渡り、寮生活を始めました。両親が帰国した後も「イギリスの大学に進学したい」と現地に残り、そのまま大学へ進学したといいます。
「美術大学だったんですけど、イギリスではプロダクトデザインを専攻していました。」
プロダクトデザインとは、机や椅子、家電製品、パッケージなど、身の回りの製品をデザインする分野です。
「机とか椅子とか、家電とか、そういうものですね。」
将来について考える時間も増え、「このままデザインの道へ進むのだろうか」と自分自身に問いかけるようになったといいます。
「デザイナーはちょっとないな、と思っていました。」
そう思うようになった理由を尋ねると、大島さんは少し考えてから答えてくれました。
「物じゃなくて、やっぱり人の方がいいなって。」
当時はまだ心理職になるとも、医療に関わるとも決めていたわけではありません。
けれど、「人と関わる仕事をしたい」という気持ちは、この頃にははっきり芽生えていました。
その思いを胸にイギリスの大学で4年間学び、無事に卒業。その卒業旅行中に、大島さんの体に異変が起こります。
最初に異変を感じたのは、目でした。
「眼瞼下垂は、本当に分かりやすかったですね。」
まぶたが下がり始め、その後は飲み込みにも異変が現れます。
「水が飲めないんですよ。」
それまで経験したことのない感覚でした。
「そういう経験って普通ないじゃないですか。だから『なんだろう』って。」
食事も食べづらくなっていましたが、とくに飲み物は症状が分かりやすく現れたそうです。
「イタリアの鉄道の中で、『飲み込めない』ってなったのは、すごく覚えています。」
さらに体全体が重くなっていきました。
「なんか変に疲れるというか、なんかだるい、動けない。」
特につらかったのは首でした。
「首が重いんですよ。頭って重いじゃないですか。支えられないから、寝てるしかない。」
その重さを、大島さんは今でも忘れられないと言います。
「入ったことはないけど、コンクリートのお風呂の中にドーンって入れられてる感じ。」
「何をするにも体が重たい。」
当時は重症筋無力症という病気も知らず、「疲れているだけなのかな」と思うしかありませんでした。
卒業旅行中のイタリアで眼科を受診します。
CT検査を受け、「脳の病気ではない」と説明を受けましたが、医師からは「早く日本へ帰った方がいい」と勧められました。
予定を切り上げ、イギリスへ戻ると、そのまま帰国することになります。
原因が分からないまま、日本へ向かう飛行機に乗りました。



医学部への進学ではなく、大学院へ進む道を選んだ大島さん。
大学院では研究を続けながら、スクールカウンセラーとして心理職の仕事も始めました。
「大学院在学中から、スクールカウンセラーをやっていました。」
精神保健福祉士の資格は、教室の先生から勧められたことがきっかけでした。
「『取っておいた方が役に立つかもよ』と言われて、『じゃあ受けます』という感じでした。」
その後、公認心理師という国家資格が創設されると、受験資格を満たしていたため取得しました。
「資格は後からついてきた感じですね。」
一方で、大学院生活は決して順調だったわけではありません。
「大学院の間にも何回か入院してるんですよ。」
治療を受けながら研究や実習を続ける日々でした。
ステロイドパルス療法や免疫グロブリン療法を受けることもあり、そのたびに治療と学業を両立していました。
体調を維持しながら大学へ通うためには、周囲の理解も欠かせませんでした。
長い距離を歩くことが難しかったため、大学へ事情を説明し、「病気なので車で通学したい」と申請。許可を得て、自家用車やタクシーを利用しながら通学を続けていました。
「車で通ったり、タクシーを使ったりしていました。」
また、大学ではバイリアフリー支援室にも参加しました。
病気や障害のある学生が学びやすい環境について話し合い、自身が感じた不便さも大学へ伝えていったといいます。
「和式トイレを洋式にしてください、とお願いしたりしていました。」
自分だけが困らなければいい、という考えではありませんでした。
同じように困る人がいるかもしれないからこそ、改善してほしいことは大学へ伝えていたそうです。
研究室でも、病気を隠すことはしませんでした。
教授や教室のメンバーには、重症筋無力症について書かれた本を配り、自分の病気について知ってもらうよう努めていました。
「本を渡して、『こういう病気なんです』って知ってもらいました。」
病名だけを伝えても、実際にどんな病気なのかはなかなか伝わりません。
だからこそ、大島さんは、自分に何ができて、何が難しいのかを具体的に説明するよう心がけていました。
「こういう病気で、これはできないけれど、これはできます、ということは説明していました。」
そうして周囲に理解してもらうことで、大学もできる範囲で環境を整えてくれたといいます。
病気があるから諦めるのではなく、どうすれば学び続けられるのかを一緒に考えてもらう。
その積み重ねが、大学院生活を支えていました。
大島さんは最後に、病気を周囲へ伝えることについて、こんな言葉を話してくれました。
「知らなきゃ、『なんでできないの?』ってなっちゃうじゃないですか。」
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